僕がひきこもりになった理由(劣等感因子2-抗えない境遇)
劣等感因子1の続き。
僕がひきこもりになった理由は、他にも様々あるのですが
抗えない境遇は僕の劣等感をすくすくと育てました。
それは、僕の性格ですから『僕が悪い』と思うことにも頷けます。
しかし、本当に『僕が悪い』という理由で片付けていいのか?とも思うのです。
先に話した通り、ファミコンが無いのは辛かったが、劣等感はそれだけではありませんでした。
それは、家族構成における立場です。
どこの、どんな家庭に生まれるか子供は選べません。
その上では宝くじのような確立、世界中、地球上のいや、天文学的確率の上で『平等』が成立するかも知れませんが。
僕の家族と、僕の立場をできるだけ分かり易く伝えたいのですが、お断りを2点ほど。
『家族の悪口』を言いたい訳じゃない、と断っておきます。
しかし、『家族の一部の自分を肯定』したいわけではありませんのであしからず。
伝わり難いか。。。
僕はこれを書くに辺り、とても悩みました。
家族という関係者を僕の視点を通じたフィルターで語ることに反則技を感じています。
なぜなら、僕の言い分だけとなってしまい、家族の言い分が表明されるような『フェア』が成立しないからです。
ですから、多少、僕の言い分が過激となり、家族が一方的な悪者になることを避けたいと考えるのですが家族への不満をリアルに語ろうとすればするほど一方的になってしまうという相反する事態が成立してしまいます。
だから、もし、これを家族が読んだ時には『あなた方のせいじゃない』と断言できます。そして、『僕だけのせいでもないと思う』と伝え、『簡単に謝らないで欲しい』とも思うのです。
何故なら、『複雑』なんです。
テストの採点のように『〇、△、×』と照合できるような『問題』ではないのだからだと思います。
ことが『複雑』過ぎて、僕には『絶対許さない』と思っていることと『許さずとも恨みたくない』と複合的で相反する気持ちが成立してしまっているので、『ただの悪口』にしたくないのに『辛辣な批判』と聞こえてしまうのでは?と懸念を抱くのです。
しかし、『この複雑な心境』を語ることで『セルフカウンセリング』による精神安定が進んでいます。
だから、思い切って、思い切り悩んだ末の告白になるのです。
2点と言いましたが、結局いろいろと付け加えてしまいましたが劣等感因子2の境遇について語りたいと思います。
僕の祖父は大金持ちの育ちで、悲惨な戦争と終戦(敗戦)の後、日本の復興と共に子供を育てあげた苦労人でした。
祖母は同じくして、お嬢様育ちだったが祖父とお見合いして結婚、戦後で大変な経験をして子育てに心身を注いだ立派な人。
僕が誕生した頃、そんな時代のせいか、家柄のせいか、代々亭主関白な男社会でした。
祖父が、座ればお茶がオートマチックに出てきて、風呂は焚かれていて、食卓にご飯が並ぶ。
父も祖父と同じくして一家の大黒柱を継投しており、見事な亭主関白のサラブレットで祖父と同じで『癇癪持ち』でした。
いわゆる『キレル大人』、『ヒステリックな人々』です。
僕の自論となりますが、『ヒステリック』は『DV』と似て『伝染』する作用があるようです。(僕の祖父の父がそうだったかは知りませんが・・・)
『雷親父』と言えば、聞えはいいのだけれど『理不尽に怒鳴る』だけの場合『癇癪』だろうと僕は判断します。
大声で怒鳴られて『理不尽に叱られる』のは子供の僕からすれば『暴力』以外のなにものでもなかったからです。
当時の『体罰』が横行する時代であっても、殴られて『愛』を感じるには『裏付けの説得力』が必要だったと思います。
『教わってないこと』で叱られることに僕は『とても理不尽』だと不満に思って過ごしていた。
『先に叩かれる』『何してるんだ』と怒鳴られて、後から駄目な理由を告げられる。
順番が逆なのだ。
それが『車に轢かれそうになって危ない』と危険回避なら『手が先に出る』と前後した理由も納得できるのでしょうが、時間に余裕がある場合でも『何してる、行儀が悪いバカ者』と食事中にバシバシと手や頭を叩かれる躾をうけていて意味不明でした。
そんな風に理不尽に怒られるのが躾なんだと勘違いしていたから、他の家で食事した時にうちの家とは躾の方法が違うんだと気が付いて、
次第にアレはやはりただの『押し付けの躾』という理不尽の横行があったんだ知ることになりました。
厳しく躾けられたと言えば聞こえはいいのですが、僕にとっては思い出すとイライラしてしまう記憶です。
外では祖父や父が癇癪を起しているのを見たことはありませんが、内弁慶というか、とても卑怯に感じていました。
父は、祖父の『自慢の息子』で、いわゆる『エリート』でした。
祖父母から寵愛された父は『親の面倒を見るのは長男の責任』と、祖父母を家に迎え同居することになったそうです。
祖父はとても神経質な人で、典型的な頑固者で潔癖な人でした。
(死ぬ間際の3年程でようやく、僕が大人になりかけたところでとても丸く優しくなったように思いましたが。)
普段の祖父はいつも厳格で一度『右』と言えばなかなか『左』に答えを曲げない一本筋の通った人でした。
僕がある日『犬を飼いたい』と言うと大声で『犬の世話は大変だからお前には出来ない』と一蹴する頑固親父ならぬ頑固祖父。
しかし、父が子供の頃には『犬を飼っていた』事実を知っていた僕は『どうして昔は良くて今はだめか?』と素直に質問する。
すると「そんなこと知らん、うるさい!」とまた怒鳴られてしまう。
僕からすると何の変哲もない『ただの疑問』が祖父の『不機嫌』を引き出してしまう。
当然、父や母に僕は懇願することになるのですが、『ファミコン』同様に『祖父の駄目』は強烈な効力がありました。
(大人になって祖母から聞いた話で『悲しい犬の最期』を経験した為、祖父は孫に犬を飼わせたくなかったらしいと知ることになりますが・・・)
しかし、やっぱり理不尽だったと思い出します。
漠然とした曖昧な理不尽ではないのです。
圧倒的な理不尽が存在していたんです。
普段、僕への回答には『右』としか言わない祖父が、何故だか父や兄の『左じゃないの?』と言う意見には耳を傾けるのです。
僕が言っても全然変わらない厳格なルールが曲がるのは決まって、父か兄が言うことでした。
いわゆる、長男、長男の長男の系統が継投され、次男がはみ出すシステム。
祖母の進言にすら耳を傾けずに意固地になる祖父が、『男同士ルール』に賛同する時がたびたびあるのです。
僕は、家族で3人目の男だというのにその『男同士ルール』には参加させてもらえませんでした。
(理由は、自分が成長するにつれて理解できてきましたが・・・)
『次男』という境遇が、見えない『資格』として存在していたんですね。
僕は、前にも話しましたが『劣等感を育てるのが上手』です。
兄がとても羨ましかった。
洋服は、いつも兄のおさがりばかり。
妹もとても羨ましかった。
兄妹で紅一点、いつも新品を買ってもらえます。
僕はハズレクジを引いた気分というのに気が付いてしまうのです。
当時の僕が『ファミコン』を欲しがった事には狙いがありました。
兄のように『習い事』をやらせてもらえない理不尽を『ファミコン』で埋めようとしていたんです。
僕は、兄のように『習い事のお試しチャンス』の順番が訪れないし、実際に習い事に挙手しても採用されませんでした。
あきらかな『差別』だと感じていました。
長男の特権階級が羨ましくて、妬んでしまいました。
そして、兄がファミコンを欲しがらないことにとてもムカついていましたし。
当時の兄は、『少年野球チーム』に所属して『スポーツ』に夢中だったから羨ましくて仕方がなかったんです。
いよいよ僕の劣等感は、理不尽のおかげですくすく育ちます。
『お兄ちゃんの悪い真似はしてはダメ』と大人から言われるから約束を守ろうとします。
しかし、『兄は注意されても、どうして大胆に悪いことができるのか?』と不思議に思ってしまうのです。
僕も悪戯しようと悪だくみをすると『妹のお手本になりなさい』とすぐに叱られてばかりなのでなし崩しです。
生れた時には、すでに兄が存在して、僕の時代は程なく薄れて、妹の天下が優先される日々。
習い事はさせてもらえない、ファミコンも無いし、本当の友人などまだ誰も居なかった。
そして、一人遊びが上手になっていった。
僕が当時はまっていたのは、スーパーのガチャガチャであった『キン肉マン消しゴム』です。
『キン消し』と呼んで流行りましたが、まったく消しゴムの要素はなく、『ごっこ遊び』専用のゴム人形でした。
一人で「そりゃー!!とりゃー!!」と擬音を呟き両手に持った『超人達』を戦わせて夢中になっていました。
理不尽な現実を吹き飛ばすように『悪役超人』達をコテンパンにやっつける『キン肉マン』が大好きでした。
普段から僕の意見は聞いてもらえないからつまらないと感じていました。
次男という立場が馴染んで家族に抗えない境遇に嫌気がさして『空想にふける』子供でした。
祖父から受け継がれる長男、大黒柱の男チーム。
祖母がお局となり、母と妹が所属する女チーム。
僕は3オン3の男女チームの間を右往左往してばかりで『宙ぶらりん』でした。
僕は劣等感から脱出しようと『おりこうさん』を演じつつ『悪魔』を育てるようになります。
劣等感の悪魔は『理不尽なヒステリック』に『ヒステリック』で対抗するようになります。
何故か、祖父や父の大嫌いな『キレル大人たち』の血を受け継いでしまいました。
大人の理不尽で矛盾した『怒鳴り声』に共鳴するように、『大声で正論』を唱えることになったのです。
ヒートアップした結果、双方の『ヒステリックな攻防』が『結論の出ない不毛な怒号』になってしまいます。
これには葛藤しました。
自分は、普通じゃない『異常な人間』と思った。
兄や母にも驚かれた。
妹は小さかったので覚えてないかも知れないが。
それは僕自身もショックだったのです。
兄も、妹もそして、祖母も祖父や父に対抗するための『ある程度のヒステリック』を伝染されたが僕程じゃなかったと思います。
当時の記憶に蓋をしたいのだろうか思い出そうとすると『倦怠感』と蜘蛛の巣がかかって曖昧にぼやけてしまう。
しかし、祖父から『お前はキチガイ』と言われたことははっきりと覚えている。
当時の僕は、理不尽でどうにもならない『境遇』への不満が溜まりに溜まってしまっていた。
そして、大嫌いな『ヒステリックに支配された悪魔』となって大暴れしてしまった。
友達もいなかったから、愚痴も言えませんでした。
本当は居たのかも知れないが、カッコをつけて普通の子を演じていたのかも知れません。
僕の劣等感はまだこの時は小さい悪魔だったのかもしれないが、体の病気をきっかけに一気に成長してしまう。
僕は意図しないところで突然、家族の中心になってしまったのだから。
そこそこの大病を患った為に、一気に注目されて突然に僕の天下が訪れる。
しかし、それは本当に不本意でした。
僕の望んだ世界じゃなかったのですから。
どうして、病気にかかってからじゃないと『愛情』を感じる場面がなかったのか。
当然、家族に心配されるのは嬉しかったのだけれど悔しかった。
とても嬉しいはずなのに、同時にもの凄く悲しいというアンバランスな状態を感じてしまいました。
思うように動けなくなってから、余計に『ファミコン』が欲しくなりましたが、かつてのようには言いませんでした。
入院することになったからです。
劣等感がまたすくすくと育ち、妄想ばかりしていました。
入院してすぐに、たまたま話す同世代の男の子と病気の話しをして仲良くなった。
どうやら僕より、数倍、数段も大変な病気だったのですが、くったくのない笑顔の素敵な少年でした。
しかし、彼の手術は失敗しました。
彼は隣の病棟にいたけれど、手術室に行ったきり帰って来なかったのです。
子供心に感じました。
あんなに素敵で、僕より病気を治すことに真面目な彼が、どうして?と。
『ここはとても怖い所』と刻まれました。
(僕の病院が嫌いな理由はここに在りました。)
自分も病気で辛いのに、彼が居なくなってもっと悲しくなってしまった。
着替えを持ってきた母にも話す元気がなかった。
こんな辛い記憶を思い出したのは『ひきこもる』ようになってからですが、思い出して良かったと思います。
僕は自分の劣等感因子について調べているうちに、とんでもない記憶に辿り着いてしまったのですが僕の大事な記憶です。
もう何十年も忘れていた記憶。
僕の劣等感は、少年時代の記憶の宝箱にしまったはずなんですが、抗えない境遇は再び訪れます。
しかし、それはもしかしたら避けて通ることの出来た道で『境遇』ではないのかもしれない。
だから、劣等感因子ではなく、『運命感因子(タイミング)』として別で語ることにします。
家族の差別は、無意識に起こった出来事だったと思います。
言い換えれば『差別ではなく僕専用のプラン』だったかも知れません。
両親や祖父母は同じように育てるよう粉骨砕身、心がけてくれていたんだと思います。
しかし、理不尽で抗えない境遇だと実感した僕は劣等感を育ててしまいました。
親からすれば『何を今さら』と思うだろうし、頑固な父はきっとそれを認めはしないでしょう。
どんどん諦めることに慣れて行く自分が嫌いになっていった少年時代。
大人言葉にして言えば『やり過ごす我慢』とでも言えばいいのか、行き場を失った感情は自分を否定して卑屈な方向へ進みます。
『普通』に憧れるが故の葛藤、馴染めない、馴染まない。
つまり『僕は変』と自覚したが故に『普通』であれたらどんなにいいのにと『憧れ』を抱いたのです。
自分の曲がった性格が、どんどん凝り固まって確執に変わろうとするときに『普通じゃない』と感じ『普通になりたい』、
自分はどうしてこんなに『普通になれないか』と落胆する癖がついてしまうのですが。
劣等感は、場合によっては『なにくそ!』と野心や渇望へと変わるときもあるのだけれど、当時は心も体も不自由だったから僕は悪魔の囁きに耳を傾けてしまった。
当時の僕の『変換因子』が機能していなかったのは、心がとても沈んでいたせいだと思います。
僕の中で『劣等感』が育ち、『運命感因子』(タイミング)から、望まない方向に『変換』してしまいます。
看病してくれる家族の愛情の傍らで、病気の自分を呪う日々がはじまったのだから。
ああ、辛い。生れてこなければと。
家族の悪口は本当に言いたくない。
本人たちを前にして言うのであればまだしも、陰口のようで卑怯になってしまうから。
自分の素直だけど汚れた部分を吐き出すときに決まって何が正しいのか分からなくなってしまう。
『自分は生れてこなければ良かった』と思ったことを思い出したこと、それを認識するとのはとても悲しい記憶です。
しかし、前に進まなくてはならない、僕の『セルフカウンセリング』はまだ終わっていないのです。
そして『運命感因子(タイミング)』に続きます。